旅を続けていると面白いものに遭遇します。今回取り上げるのは地名でしょうか?それとも景勝地でしょうか?
順番は現在に近いものから紹介しましょう。
タイトルに『七里○○』とありますが、当然距離を言い現しています。
先ずは今年の3月15日・16日、甲州街道で通過した『七里岩』からです。
山梨県の韮崎市から始まったこの『七里岩』は長野県との県境まで続きました。乱暴な計算ですが並行して走るJR中央線の韮崎駅から信濃境駅までの距離は31、2Kmです。
韮崎駅付近の「平和観音」から始まる『七里岩』は甲州街道(国道20号線)沿いにあります。
国道すれすれに迫る『七里岩』
不思議な穴が開いている
ウィキペディアによると、八ヶ岳泥流と呼ばれる火砕流が形成した台地で、南側には釜無川、東側には塩川が流れ、それぞれ侵食崖を形成している。川沿いに連なる10mから40mの断崖で国道20号線からみられる。
南北の長さが30Km(約7里)にも及ぶので、七里岩という美称が付けられたとされる。台地の形が舌状であり「韮」の葉に似ているので、その先端部のある地域を「韮崎」として、韮崎市の地名発祥のひとつになったとされる。と書かれています。
さらにこの台上にあるのがJR中央線の駅、「長坂」「小淵沢」で「韮崎」を過ぎればこの台地を登ることになる。
釜無川やその支流
『七里岩』沿いの集落とその中腹を走る道路?
長野県との県境に架かる「国境橋」付近で『七里岩』は終る
次の『七里○○』は平成22年7月18日、9月18日に訪れた「熊野古道・伊勢路」の『七里御浜』です。
熊野古道も終盤になって熊野灘に面した直線コースを歩きました。私達が辿った熊野古道・伊勢路は大小合わせて18もの峠越えをする難コースでした。その最後の峠である「松本峠」からこの『七里御浜』が遠望できるのと同時に下れば「七里」の浜歩きが始まります。
「松本峠」から『七里御浜』を望む。下は展望台の看板
注 説明版、写真などクリックして下さい(拡大して見られます)
往時はこうして浜を歩いたのでしょうか?とても歩けません!
御浜にある「獅子岩」
ここ『七里御浜』もJR紀勢線の最寄り駅から換算してみましょう。「熊野市駅」から「新宮駅」まで約22、6Kmです。

ウィキぺディアには、『七里御浜』は日本の渚百選、日本の白砂青松百選、21世紀に残したい日本の自然百選に選ばれている。と紹介されています。
JR阿田和駅付近、道の駅「パーク七里御浜」から
さて今ひとつの『七里○○』は東海道を旅している時に廻って来ました。
古くなりますが平成19年3月31日の事です。 この日は知立宿(ちりゅう・愛知県知立市)を出発して有松絞りで有名な鳴海宿(なるみ・名古屋市緑区)を経て熱田神宮のある宮宿(みや・名古屋市熱田区)に至ります。伊勢湾に面した宿場です。
ウィキぺディアの紹介を借りましょう。
七里の渡しは東海道における唯一の海上路で、1601年(慶長6年)の東海道制定の際に定められた。七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来する。船によって移動し、所要時間は約4時間であった。「桑名の渡し」、「熱田の渡し」、「宮の渡し」などとも言った。(「桑名の渡し」は三重県側の渡し場をいう。)
ウィキぺディアの写真配信を借用
渡し場跡にある「時の鐘」


一方桑名宿(くわな・三重県桑名市)側の渡し場は、同年10月7日に訪れました。
この鳥居は「伊勢の国一の鳥居」で伊勢神宮に向って立てられたもので伊勢の国の東の玄関口に位置付けられているといわれます。
「桑名宿」の揖斐川と桑名城跡
安藤広重画「東海道五拾参次之内・桑名・七里渡口」
「東海道五十三次を歩く」で紹介された桑名の項には…桑名の町は江戸時代には元禄十四年(1701)と享保四年(1719)の二度の大火に見舞われ、城下町はほとんど焼失した。さらに明治維新の戦いで、桑名城も破壊しつくされた。再び、太平洋戦争の戦火に遭う。その上昭和34年に、伊勢湾台風の被害をも被ってしまう。現在では、鳥居に密着するようにビルが立ち並び、伊勢湾も、広い地域が埋め立てられて、広重が描く風情はもう何処にもない。と書かれています。
これからの旅にも『七里○○』にめぐり合う事もあるかも知れません?楽しみにしながら続けて行きます。
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